円覚寺
北鎌倉駅を降りると駅のすぐ脇に円覚寺の山門がある。
鎌倉には百十余りの寺院が点在するがその三分の一は臨済宗が占めている。栄西は宋に渡り禅宗を学び坐禅によって自力で悟りを開くことを重んじた。栄西は1200年に北条政子によって寿福寺に迎えられ住持となった。鎌倉武士達は栄西が伝えた宋の禅宗に新鮮な魅力を感じた。臨済宗は幕府の保護を受け、栄西没後も門下の高弟により発展した。蘭渓道隆は宋風の本格的な臨済宗を広め、1253年建長寺の開山となり、幕府と禅宗は強く結びついていった。蘭渓道隆没後、八代執権北条時宗に招かれた無学祖元が円覚寺を開山し、臨済宗は更に鎌倉の地に根付いていった。
円覚寺は臨済宗円覚寺派大本山で、鎌倉五山第二位。文永、弘安の役の二度にわたる元との戦いで死んだ兵の菩提を弔うため、1282年時宗が無学祖元を開山に招いて建立した。寺名は起工の際に地中から円覚経を納めた石櫃が掘り出されたことによるとされる。鎌倉幕府滅亡後も夢窓疎石が住職につき、後醍醐天皇の力もあって繁栄し、塔頭も四十二を数えた。塔頭の一つ佛日庵は時宗の廟所とされる。
因みに、鎌倉には2000年まで松竹大船撮影所があった関係もあり多くの映画人や文化人が住んでいた。円覚寺本山墓地には小津安二郎の墓があり、墓碑には「無」と刻まれている。また、塔頭松嶺院には交通事故で他界した佐田啓二が眠っている。