伊豆箱根湘南風土記(4)鎌倉 建長寺

建長寺

北鎌倉駅を降りて鎌倉方面に10分ほど歩いたところに建長寺がある。

建長寺は臨済宗建長寺派の大本山、鎌倉五山第一位の寺で、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を開山に招いて開いた。日本で最初の禅専門道場の禅寺である。寺名は創建時の年号1253年(建長5年)に由来する。地獄谷と呼ばれた刑場跡地に建てられた。

鎌倉末期には三門、仏殿、庫裡、僧堂、衆寮などが回廊によって結ばれていたが、このような建長寺の中国様式の建築法が日本の禅寺の元となったとされる。

蘭渓道隆は野菜の皮やヘタを無駄にしないようにけんちん汁を発案したと伝えられるが建長汁が転訛したとのことである。

建長寺三門再建に際して境内に棲む狸が日ごろのお礼にと和尚に化けて勧進したとの伝説もある。

また、建長寺が創建されるまで蘭渓道隆が滞在していた元建長寺の異名のある常楽寺の仏殿天井には狩野雪信による雲龍があるが、この龍は毎夜水を飲みに出かけるためお堂がミシミシと鳴って困ったため、出歩かないように両目を塗りつぶしたところ音が鳴りやんだとの逸話が残されていて、今も目には瞳が描かれていないとのこと。

伊豆箱根湘南風土記(3)謡曲「鉢の木」に伝わる鎌倉武士の気風

謡曲「鉢の木」に伝わる鎌倉武士の気風

五代執権北条時頼が執権を退いた晩年に諸国を遊行したときの伝説を伝える謡曲「鉢の木」というのがある。当時の鎌倉武士の気風を伝える話として興味深いので抜き書きしてみた。

ある大雪の夕暮れ、下野国佐野荘の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。家主はそれが時頼であるとも知らず、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は佐野源左衛門尉常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族に土地を奪われ落ちぶれたと身の上を語る。いろりの薪が尽きて火が消えかかったが、継ぎ足す薪も無いので秘蔵の松・梅・桜の鉢の木を持ち出し、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべた。今はすべてを失った身の上だが、鎧となぎなたと馬だけは残してあり、いざ鎌倉という時には痩せ馬にまたがってでも一番に馳せ参じて戦う覚悟であると語る。

年があけて、突然鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も古鎧に身をかため、痩せ馬に乗って駆けつけるが、鎌倉につくと、常世は北条時頼の御前に呼び出された。諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏した常世に時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地、加賀国梅田荘、越中国桜井荘、上野国松枝荘を恩賞として与えたという話である。

伊豆箱根湘南風土記(2)鎌倉の歴史

鎌倉の歴史

鎌倉の歴史を簡単に辿ってみよう。

鎌倉の地に人が住み始めたのは今から一万年以上前の後期旧石器時代の頃とされる。この頃は、火山活動が盛んで富士や箱根の山も噴煙を上げていたとのことである。

縄文時代前期頃までは海岸線は現在より陸地奥深く入り込んでいて、鎌倉の湾も鶴岡八幡宮前辺りまで及び、大船なども入江になっていたとされる。中期には温暖な気候の下、人口も増加し、土器も厚く大型な円筒形や深鉢形のものも作られていたようである。縄文後期には気候は寒冷化し、海も後退し陸地が広がり、土器の形も注口や香炉形など複雑なものも作られていた。

弥生時代には海岸線は更に現在の位置に近いところまで後退した。弥生中期には稲作と薄く赤みの強い、また造形もおとなしい宮ノ台式土器、更に金属器使用を伴う弥生文化が確認されている。

古墳時代後期には、和田塚に代表される向原古墳群が存在した。また、竪穴住居、山腹の横穴墓などが確認されている。

奈良時代、相模国国府が平塚に置かれていた当時、鎌倉にも郡の役所が置かれていた。鎌倉は万葉集にも詠まれている。長谷寺、杉本寺なども奈良時代に建立されたと伝えられている。

平安時代、鎌倉郡は7つの郷に分かれ、玉輪荘、山内荘など荘園も生まれていた。この時代には坂ノ下御霊神社、二階堂荏柄天神社などの寺社が建てられたとされる。

鎌倉と源氏の関係は、源頼信、頼義父子が、1031年房総の平忠常の乱を平定し、頼義が桓武平氏平直方の婿として鎌倉に迎えられたことに始まるとされる。その後、陸奥守に任じられた頼義は、1062年前九年役で豪族安倍氏を討ち、その翌年由比若宮を創建、奥州での勝利を祈願した源氏の氏神京都山城岩清水八幡宮を勧請したとされる。1081年には頼義の子、義家が由比若宮の社殿を修築し、翌々年には豪族清原氏の内紛に介入して出兵(後三年役)、鎌倉権五郎景政など坂東武者達に恩賞を与え、信頼を深めたとされる。義家の曾孫源義朝は、鎌倉之楯を拠点に東国で活動していたが、1144年には大庭御厨(伊勢神宮荘園)へ侵入する事件が発生。1156年、保元の乱では義朝は平清盛とともに天皇方につき勝者となるものの、3年後の平治の乱では藤原信頼に味方して清盛軍と戦い敗死。

1180年、義朝の子源頼朝が配流先の伊豆国で打倒平氏のため挙兵。頼朝は石橋山合戦で大庭景親に敗れるも、安房国に渡り、武蔵国から鎌倉、大倉御所に入り、関東武士から鎌倉の主として仰がれた。1185年、平氏を滅ぼした頼朝は、奥州平泉にかくまわれていた義経を藤原泰衡に討たせ、更に泰衡を奥州合戦で滅ぼし、1192年征夷大将軍に任じられた。ここに鎌倉を本拠とする武家政権鎌倉幕府が誕生。頼朝は鶴岡八幡宮を町の中心に据え、若宮大路を整備するとともに、御家人統率のための侍所、政務を担当する政所、訴訟を担当する問注所を設置、また各地には、御家人を統率する守護、没収した敵方武士領地を支配する地頭が置かれた。

頼朝の子二代将軍頼家は、妻の父比企能員と関係を強め、祖父北条時政、母政子と対立。1203年、時政は比企氏を滅ぼすとともに、頼家を伊豆修善寺に幽閉し暗殺。

頼家の弟実朝が三代将軍になると、母政子と叔父北条義時が政治を補佐。政所別当義時は1213年侍所別当和田義盛を滅ぼし、両別当を兼ね、地位を固めた。1219年、実朝が鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際頼家の子公暁により暗殺され、源氏将軍は三代で断絶し、政子が実質的指導者となり尼将軍と呼ばれた。

将軍後継者には頼朝の遠縁藤原道家の子三寅(のちの頼経)が鎌倉に迎えられた。実朝は藤原定家に師事し和歌に親しみ、金槐和歌集を編むなど京風文化摂取に積極的で後鳥羽上皇とも親密な関係にあった。1221年には後鳥羽上皇が二代執権義時追討の命を発して挙兵、承久の乱が起こったが、幕府側の勝利で終結。

1225年政子が死去すると、三代執権北条泰時は頼経を将軍に任官させ御所を大倉から宇津宮辻子に移した。泰時は最初の武家の法典御成敗式目を制定したほか、和賀江嶋築港支援、朝夷奈切通整備等に取り組み、また合議制による執権政治を行った。

孫の五代執権時頼は藤原将軍にかえて後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎え、以後滅亡まで親王を将軍とした。

時頼の子八代執権時宗の時代には、1274年、1281年の2度にわたり元の軍隊が襲来(文永、弘安の役)、撤退した。その間、元の使者杜世忠は龍口で斬られたとされる。この時期、北条氏の独裁色が強まり、得宗時宗を中心に得宗専制政治が敷かれた。

九代執権貞時の時代には、外戚安達泰盛が貞時の家臣平頼綱に滅ばされるという霜月騒動が起こったが、頼綱も貞時により滅ばされた。

鎌倉後期には3度目のモンゴル襲来防備のため御家人の経済負担が増し幕府への不満が高まった。1333年後醍醐天皇の討幕運動に呼応して足利尊氏の子千寿王を擁した新田義貞らにより鎌倉は攻撃され、14代執権北条高時ら一門と家臣が自害して鎌倉は陥落。京都では六波羅探題が足利尊氏によって攻撃され、鎌倉幕府は滅亡した。

中国から伝えられた禅宗が武家社会に広く受け入れられ、臨済宗を伝えた栄西は政子の発願により寿福寺を開山。蘭渓道隆は時頼が建立した建長寺の開山、無学祖元は時宗が建立した円覚寺の開山となった。

伊豆箱根湘南風土記(1)久しぶりの鎌倉

久しぶりの鎌倉

外国のお客様をご案内するために久しぶりに鎌倉を訪ねた。

東京でゆっくりと懐石料理を食していたため、横須賀線で鎌倉に到着したのは午後5時に近かった。夏場は鎌倉の大仏様も5時半までは開いているようだったので、タクシーで駆け付けた。鎌倉大仏は鎌倉駅から歩けば20~30分の高徳院境内にある。濃い緑の木々に囲まれた境内に夏の青空を背に10mを越す大仏は大きく気高い表情で座していた。大仏様の前には夏らしく西瓜や葡萄が供えられていた。1238年暦仁元年(嘉禎4年)に造られた大仏は木造だったが、1247年宝治元年(寛元5年)の台風で倒壊し、1252年建長4年に現在の青銅像が鋳造されたとされる。当時は大仏殿に安置されていたが、1495年明応4年の津波で大仏殿が流されてしまい、露座の大仏になったとされる。奈良の大仏が勅命で造られたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財で造られたといわれるのを知ると、より深く人々の心のよりどころとなったいたのではないかと当時の様子が偲ばれる。

鎌倉大仏を出て、すぐ近くの長谷寺を訪ねた。長谷寺は創建736年、徳道により開山されたとされる。幸いまだ開いていて、更に日が落ちた後には長谷の灯りの催しも予定されているとのことであった。長谷観音の本堂は入り口から苔生した小径を少し昇った処にある。可愛らしい3体の子地蔵が優しく迎えてくれている。本堂は、力強い構えの屋根が幾層にも重なり、また黒白の塗のコントラストが美しい。本堂内、本尊の十一面観音菩薩像は約9mもある大きな像で、木造ではあるが金色の装飾が見事である。夕暮れ時で暑さも和らぎ、また高台にあることもあり、境内には心地よい風が流れていた。寺の脇の見晴台からは夕陽に輝く鎌倉の街並みや海を一望することができた。街の表を湾に囲まれ、また背後を小高い山々に囲まれた鎌倉が日本最初の武家政権の本拠に定められた訳がよくわかる。

鎌倉駅に戻り、若宮大路に出て、段葛の道を通って、鶴岡八幡宮を訪ねた。段葛を歩く頃には夕陽も既に落ち、暗くなりかけていたが、両脇を灯りが連なり、通り道を美しく照らし出していた。段葛を歩み進んで行くと山手方向中央に少し控えめにライトアップされた社が徐々に大きく見えてくる。段葛は、源頼朝が御台所政子の安産を祈願して造らせた参道といわれる。鶴岡八幡宮は1180年、鎌倉入りした頼朝が材木座にあった由比若宮を現在の地に遷座したとされ、源氏の守り神として鎌倉幕府から尊宗された。また、その後も、足利氏、豊臣氏、徳川氏からも篤く崇敬されたとのことである。鶴岡八幡宮は1191年に焼失したが、すぐに若宮(下宮)が再建され、また本宮(上宮)も創建された。現在の若宮は1624年に二代将軍徳川秀忠が、本宮は1828年に十一代将軍徳川家斉が再建造営したとされる。