伊豆箱根湘南風土記(2)鎌倉の歴史

鎌倉の歴史

鎌倉の歴史を簡単に辿ってみよう。

鎌倉の地に人が住み始めたのは今から一万年以上前の後期旧石器時代の頃とされる。この頃は、火山活動が盛んで富士や箱根の山も噴煙を上げていたとのことである。

縄文時代前期頃までは海岸線は現在より陸地奥深く入り込んでいて、鎌倉の湾も鶴岡八幡宮前辺りまで及び、大船なども入江になっていたとされる。中期には温暖な気候の下、人口も増加し、土器も厚く大型な円筒形や深鉢形のものも作られていたようである。縄文後期には気候は寒冷化し、海も後退し陸地が広がり、土器の形も注口や香炉形など複雑なものも作られていた。

弥生時代には海岸線は更に現在の位置に近いところまで後退した。弥生中期には稲作と薄く赤みの強い、また造形もおとなしい宮ノ台式土器、更に金属器使用を伴う弥生文化が確認されている。

古墳時代後期には、和田塚に代表される向原古墳群が存在した。また、竪穴住居、山腹の横穴墓などが確認されている。

奈良時代、相模国国府が平塚に置かれていた当時、鎌倉にも郡の役所が置かれていた。鎌倉は万葉集にも詠まれている。長谷寺、杉本寺なども奈良時代に建立されたと伝えられている。

平安時代、鎌倉郡は7つの郷に分かれ、玉輪荘、山内荘など荘園も生まれていた。この時代には坂ノ下御霊神社、二階堂荏柄天神社などの寺社が建てられたとされる。

鎌倉と源氏の関係は、源頼信、頼義父子が、1031年房総の平忠常の乱を平定し、頼義が桓武平氏平直方の婿として鎌倉に迎えられたことに始まるとされる。その後、陸奥守に任じられた頼義は、1062年前九年役で豪族安倍氏を討ち、その翌年由比若宮を創建、奥州での勝利を祈願した源氏の氏神京都山城岩清水八幡宮を勧請したとされる。1081年には頼義の子、義家が由比若宮の社殿を修築し、翌々年には豪族清原氏の内紛に介入して出兵(後三年役)、鎌倉権五郎景政など坂東武者達に恩賞を与え、信頼を深めたとされる。義家の曾孫源義朝は、鎌倉之楯を拠点に東国で活動していたが、1144年には大庭御厨(伊勢神宮荘園)へ侵入する事件が発生。1156年、保元の乱では義朝は平清盛とともに天皇方につき勝者となるものの、3年後の平治の乱では藤原信頼に味方して清盛軍と戦い敗死。

1180年、義朝の子源頼朝が配流先の伊豆国で打倒平氏のため挙兵。頼朝は石橋山合戦で大庭景親に敗れるも、安房国に渡り、武蔵国から鎌倉、大倉御所に入り、関東武士から鎌倉の主として仰がれた。1185年、平氏を滅ぼした頼朝は、奥州平泉にかくまわれていた義経を藤原泰衡に討たせ、更に泰衡を奥州合戦で滅ぼし、1192年征夷大将軍に任じられた。ここに鎌倉を本拠とする武家政権鎌倉幕府が誕生。頼朝は鶴岡八幡宮を町の中心に据え、若宮大路を整備するとともに、御家人統率のための侍所、政務を担当する政所、訴訟を担当する問注所を設置、また各地には、御家人を統率する守護、没収した敵方武士領地を支配する地頭が置かれた。

頼朝の子二代将軍頼家は、妻の父比企能員と関係を強め、祖父北条時政、母政子と対立。1203年、時政は比企氏を滅ぼすとともに、頼家を伊豆修善寺に幽閉し暗殺。

頼家の弟実朝が三代将軍になると、母政子と叔父北条義時が政治を補佐。政所別当義時は1213年侍所別当和田義盛を滅ぼし、両別当を兼ね、地位を固めた。1219年、実朝が鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際頼家の子公暁により暗殺され、源氏将軍は三代で断絶し、政子が実質的指導者となり尼将軍と呼ばれた。

将軍後継者には頼朝の遠縁藤原道家の子三寅(のちの頼経)が鎌倉に迎えられた。実朝は藤原定家に師事し和歌に親しみ、金槐和歌集を編むなど京風文化摂取に積極的で後鳥羽上皇とも親密な関係にあった。1221年には後鳥羽上皇が二代執権義時追討の命を発して挙兵、承久の乱が起こったが、幕府側の勝利で終結。

1225年政子が死去すると、三代執権北条泰時は頼経を将軍に任官させ御所を大倉から宇津宮辻子に移した。泰時は最初の武家の法典御成敗式目を制定したほか、和賀江嶋築港支援、朝夷奈切通整備等に取り組み、また合議制による執権政治を行った。

孫の五代執権時頼は藤原将軍にかえて後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎え、以後滅亡まで親王を将軍とした。

時頼の子八代執権時宗の時代には、1274年、1281年の2度にわたり元の軍隊が襲来(文永、弘安の役)、撤退した。その間、元の使者杜世忠は龍口で斬られたとされる。この時期、北条氏の独裁色が強まり、得宗時宗を中心に得宗専制政治が敷かれた。

九代執権貞時の時代には、外戚安達泰盛が貞時の家臣平頼綱に滅ばされるという霜月騒動が起こったが、頼綱も貞時により滅ばされた。

鎌倉後期には3度目のモンゴル襲来防備のため御家人の経済負担が増し幕府への不満が高まった。1333年後醍醐天皇の討幕運動に呼応して足利尊氏の子千寿王を擁した新田義貞らにより鎌倉は攻撃され、14代執権北条高時ら一門と家臣が自害して鎌倉は陥落。京都では六波羅探題が足利尊氏によって攻撃され、鎌倉幕府は滅亡した。

中国から伝えられた禅宗が武家社会に広く受け入れられ、臨済宗を伝えた栄西は政子の発願により寿福寺を開山。蘭渓道隆は時頼が建立した建長寺の開山、無学祖元は時宗が建立した円覚寺の開山となった。

伊豆箱根湘南風土記(1)久しぶりの鎌倉

久しぶりの鎌倉

外国のお客様をご案内するために久しぶりに鎌倉を訪ねた。

東京でゆっくりと懐石料理を食していたため、横須賀線で鎌倉に到着したのは午後5時に近かった。夏場は鎌倉の大仏様も5時半までは開いているようだったので、タクシーで駆け付けた。鎌倉大仏は鎌倉駅から歩けば20~30分の高徳院境内にある。濃い緑の木々に囲まれた境内に夏の青空を背に10mを越す大仏は大きく気高い表情で座していた。大仏様の前には夏らしく西瓜や葡萄が供えられていた。1238年暦仁元年(嘉禎4年)に造られた大仏は木造だったが、1247年宝治元年(寛元5年)の台風で倒壊し、1252年建長4年に現在の青銅像が鋳造されたとされる。当時は大仏殿に安置されていたが、1495年明応4年の津波で大仏殿が流されてしまい、露座の大仏になったとされる。奈良の大仏が勅命で造られたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財で造られたといわれるのを知ると、より深く人々の心のよりどころとなったいたのではないかと当時の様子が偲ばれる。

鎌倉大仏を出て、すぐ近くの長谷寺を訪ねた。長谷寺は創建736年、徳道により開山されたとされる。幸いまだ開いていて、更に日が落ちた後には長谷の灯りの催しも予定されているとのことであった。長谷観音の本堂は入り口から苔生した小径を少し昇った処にある。可愛らしい3体の子地蔵が優しく迎えてくれている。本堂は、力強い構えの屋根が幾層にも重なり、また黒白の塗のコントラストが美しい。本堂内、本尊の十一面観音菩薩像は約9mもある大きな像で、木造ではあるが金色の装飾が見事である。夕暮れ時で暑さも和らぎ、また高台にあることもあり、境内には心地よい風が流れていた。寺の脇の見晴台からは夕陽に輝く鎌倉の街並みや海を一望することができた。街の表を湾に囲まれ、また背後を小高い山々に囲まれた鎌倉が日本最初の武家政権の本拠に定められた訳がよくわかる。

鎌倉駅に戻り、若宮大路に出て、段葛の道を通って、鶴岡八幡宮を訪ねた。段葛を歩く頃には夕陽も既に落ち、暗くなりかけていたが、両脇を灯りが連なり、通り道を美しく照らし出していた。段葛を歩み進んで行くと山手方向中央に少し控えめにライトアップされた社が徐々に大きく見えてくる。段葛は、源頼朝が御台所政子の安産を祈願して造らせた参道といわれる。鶴岡八幡宮は1180年、鎌倉入りした頼朝が材木座にあった由比若宮を現在の地に遷座したとされ、源氏の守り神として鎌倉幕府から尊宗された。また、その後も、足利氏、豊臣氏、徳川氏からも篤く崇敬されたとのことである。鶴岡八幡宮は1191年に焼失したが、すぐに若宮(下宮)が再建され、また本宮(上宮)も創建された。現在の若宮は1624年に二代将軍徳川秀忠が、本宮は1828年に十一代将軍徳川家斉が再建造営したとされる。

 

Italia Tour 2016【1】Firenze, Spello, Rome

2016年は、イタリアの旅に出かけた。オーストリア航空でウィーン経由でミラノからはいり、フィレンツェ、ローマ、シエナ、チンクエ・テッレ、コモなどを経てミラノから帰国する、約2週間の旅である。

2016年8月17日、ミラノから列車でフィレンツェへ

Santa Maria Novella

ミラノへ飛行機で到着後、列車でフィレンツェに向かう。サンタマリアノヴェッラ駅で降り、すぐ傍のサンタ・マリア・ノヴェッラ(Santa Maria Novella)教会前のホテル(Hotel Santa Maria Novella)に宿泊。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードは寄木細工のように美しい。イタリアルネサンスと呼ばれる文芸復興運動が開花して、その盛りを迎えた1460年頃に、貴族ルッチェッライ家により、建築家レオン・バッティスタ・アルベルティに、ファサードの建築が依頼されたとされる。アルベルティは、古いゴシックスタイルの後方部分を、中央バラ窓の左右に付けられた装飾によって完全に隠し、ルネサンス時代を象徴する建築様式を実現した

2016年8月18日、フィレンツェ(Firenze)市内散策 & スペッロ(Spello)

Pal. Pitti

アルノ(Arno)川を渡り、ピッティ(Pal. Pitti)宮を訪ねる。商人ピッティが建築したルネッサンス期の典型的宮殿で、メディチ家コジモ1世に売却されたとされる。

Madonna del Granduca, Raffaello Santi
Madonna della Seggiola, Raffaello Santi

宮殿2階のパラティーナ美術館には、ラファエロ『大公の聖母(Madonna del Granduca)』、『小椅子の聖母(Madonna della Seggiola)』など、数々の名画が収められている。

Palazzo Vecchio

彫金細工や宝石の店がぎっしりと立ち並ぶヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)を渡ると、ヴェッキオ宮(Palazzo Vecchio)のあるシニョーリオ広場に出る。広場に面したTavola Caldaで軽食、イカのマリネの檸檬添えとペンネアラビアータが美味。

Chiesa di Santa Maria Maggiore
Annunciazione, Pinturicchio

イタリアの美しい村の一つスペッロまで足を延ばした。レンガ造りの家々の軒先には花が飾られていて美しい。街の中心にはサンタマリアマジョレ教会があり、ピントゥリッキオの受胎告知のフレスコがある。

2016年8月19日、フィレンツェ(Firenze)市内散策

la cappella dei Principi

今日も、フィレンツェ市内散策。サンロレンツォ(San Lorenzo)教会裏手にあるメディチ家礼拝堂を訪ねた。君主の礼拝堂(la cappella dei Principi)は17世紀にメディチ家が富の象徴として建てた礼拝堂であり、トスカーナ大公家の墓所となっている。色彩豊かな大理石や象嵌細工が見事。メディチ家の丸薬を象った紋章も印象的。

dusk & dawn, Michelangelo Buonarroti

新聖具室(Sacrestia Nuova)にはミケランジェロ作の曙、黄昏、昼、夜の4体の彫像がロレンツォ2世及びジュリアーノの墓に置かれている。

Cappella dei Magi, Benozzo Gozzoli

サンロレンツォ教会近くのメディチ・リッカルディ宮(Palazzo Medichi-Riccardi)を訪ねる。三賢王の礼拝堂(Cappella dei Magi)には、ゴッツォリ作の「東方三賢王の礼拝」のフレスコ画があり、見ごたえがある。馬上にはメディチ家ロレンツォ豪華王が描かれている。

La Madonna, Filippo Lippi

同宮殿内のフィリッポリッピの聖母子像も必見。

Annunciatione, Fra Filippo Lippi, San Lorenzo

サンロレンツォ教会、マルテッリ礼拝堂には、フィリッポ・リッピによる受胎告知がある。フランドル絵画の影響を受けた細部の表現が緻密で、ガブリエルの持つ百合の花、マリアの足元にある透き通ったガラスの水差しなどは、彼女の純粋さを表わしているとされているようである。遠近法で描かれた建物や人物像、マリアの衣裳、2人の天使の庶民性など、ルネサンス期の特徴を感じさせる。

Annunciazione, Fra Angelico

サンマルコ美術館(Museo di San Marco)にあるフラ・アンジェリコ(Fra Angelico)による受胎告知(Annunciazione)のフレスコ画は、優美で清純なマリアが見事に表現されており、見逃せない。

Annunciatione, angelico, museo di san marco

また、サンマルコ美術館にはチェッラと呼ばれる小さな祈りの為の部屋があり、各部屋には様々な絵が描かれているが、その中にも、アンジェリコによる受胎告知が描かれていて興味深い。

Giotto di Bondone

サンタマリアノヴェッラ教会の中央、主祭壇の上には、ジョットの「キリスト磔刑図」(1290年頃)が架けられているが、ルネサンスの先駆けとなった。

Birth of Maria, santa maria novella

同教会内の「聖母マリアの誕生」の絵は、フィレンツェの上流階級の人物、服装や建物内の様子など、1400年代当時の情景に当てはめて描かれており、ルネサンス期の貴族社会の実際を窺い知ることができて面白い。

annunciazione, santa maria novella

サンタマリアノヴェッラ教会内のステンドグラスも非常に緻密で美しい。この上部にも何と受胎告知の光景が描かれていて興味深い。

Officina Profumo-farmaceutica di Santa Maria Novella

サンタマリアノヴェッラ教会には現存する世界最古の薬局Officina Profumo-farmaceutica di Santa Maria Novella)がある。1221年にフィレンツェに移住してきたドミニコ会修道院サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィニェ(Santa Maria Fra Le Vigne )の修道僧たちが薬草を栽培し薬剤を調合していたのが始まり。特に、フランス王家のアンリ2世に嫁ぐカテリーナ・デ・メディチのために考案した「アックア・デッラ・レジーナ(L’acqua della regina)(王妃の水)」は、後の「アクア・ディ・コローニア」(ケルンの水)、即ちオーデコロンの起源となったとされる。

battistero san giovanni

洗礼堂(Battistero San Giovanni)は、ドゥオーモ前にある八角形の建築で、美しい大理石で造られている。11~12世紀の建築で、街の守護聖人聖ジョバンニに捧げられたとされる。

battistero san giovanni Porta del Paradiso Lorenzo Ghiberti

洗礼堂には3つのブロンズの扉があり、南の扉はアンドレア・ピサーノ、北と東の扉はギベルティの作とされる。特に、東の扉はミケランジェロが「天国の門」と讃えた扉。アダムとイブ、カインとアベル、ノア、アブラハムなど旧約聖書の創世記の物語を表現。人物の優美な体や流れるような衣のドレープなどを鋳造ブロンズながら柔らかに表現。洗礼堂の扉の制作者を決めるコンクールでギベルティとブルネッレスキが残り、ブルネッレスキの辞退によりギベルティが指名され制作したのがこの「天国の門」。

battistero san giovanni cùpola

洗礼堂のクーポラには、最後の審判などを主題としたビザンチン風のモザイク画が描かれている。

Duomo Santa Maria del Fiore

サンタ・マリア・デル・フィオーレは、ドゥオーモとも呼ばれ、かつてのフィレンツェ共和国の宗教の中心的存在で、白、ピンク、グリーンの大理石の幾何学模様で装飾された美しい大聖堂。1296年から172年間の歳月をかけて建設された。

duomo santa maria del fiore cùpola

ドゥオーモの大クーポラはブルネッレスキの設計で、クーポラ内側に描かれたヴァザーリ等によるフレスコ画「最後の審判」も必見。

campanile-di-Giotto-del-Duomo

ジョットの設計による鐘楼は高さ85メートルで、デザイン、色彩、繊細なレリーフともに完成された美しさを誇る。その芸術性の高さについては、ダンテが神曲の中でも触れているとされる。

ウッフィツィ美術館(Galleria degli Uffizi)を訪れる。フィレンツェ公国の行政局が置かれていたためにこのように呼ばれているが、メディチ家の財力を結集したルネサンス美術のすべてがここに収蔵されている。

Madonna col Bambino e due angeli, Filippo Lippi

イタリアルネサンス期に描かれたフィリッポリッピの『聖母子と二人の天使(Madonna col Bambino e due angeli)』聖母は瞳を下に向け、2人の天使に抱かれている幼児キリストの前で祈りながら手を合せている。彼女の柔らかいヴェールと真珠に飾られた髪型、衣装とともに1400年代半ばの優雅さを表現している。聖母が海や山々の見える丘の上の家の窓の椅子に座っている構図はフランドル絵画の影響を受けているとされる。

Madonna del cardellino, Raphael Santi

イタリアルネサンスの巨匠の一人、ラファエロの『鶸(ひわ)の聖母(Madonna del cardellino)』は、1505年から1506年頃の板上の油彩画である。三人の人物、聖母マリア、キリスト、洗礼者ヨハネが幾何学的にほぼ正三角形に配置されている。聖母は典型的な赤と青の衣裳を纏う。赤はキリストの情熱、青は教会を意味する。洗礼者聖ヨハネは手にゴシキヒワを持っており、キリストは鳥に触れるために手を差し伸べている。キリスト磔刑の際、鳥はキリストの頭上を飛び、キリストの荊の冠からとげを取ったが、その時キリストの血の滴が鳥の赤い斑点となったとされる。聖母の手にある本には、「知恵の玉座(Sedes Sapientiae)」と記されているとのことである。

Nascita di Venere, Sandro Botticelli

ボッティチェリヴィーナスの誕生(Nascita di Venere)』は、1485年から1486年にかけて描かれたルネサンス期最盛期を代表する名画である。ギリシアの詩人へシオドスによれば、ヴィーナスは海から生まれ,帆立貝の貝殻に乗って、ゼフュロスとニンフであるフュロスの優しい風を受けてキュプロス島のパフオスに上陸したとされる。季節と時間の女神であるホーラが、花模様の外套を裸身の女神ヴィーナスへと差し出している。神々の中で最も美しいとされるヴィーナスは愛と美と豊穣を象徴する存在であり、その誕生の姿を美しいままに表現している。

Primavera, Sandro Botticelli

ボッティチェリの『春(Primavera)』、春の森に集う古代神話の神々を描いたこの作品は、メディチ家一門のロレンツオ・デイ・ビュルフランチェスコのために描かれたとされ、ルネサンスの春を象徴するような華やかさに満ち溢れている。
向かって右端には春をもたらす西風の神 ゼフュロス、その隣に大地の精フュロス、口から花々を生む。春になり、凍てついた大地に草花が芽生える自然現象を表現している。その左隣には、フュロスが変身した春の女神プリマヴェーラ、花の女神フローラ。その左隣がヴィーナスで、頭上には彼女の息子である愛の神 キューピッドがいる。キューピッドは目隠しをしていて、ヴィーナスの侍女である三美神に愛の矢を射ようとしている。三美神の真ん中の神は左端の伝令神 メルクリウスを見つめている。主人公のヴィーナスを中心に、春に対する喜びやときめきが描かれている。

Annunciazione, Leonardo da Vinci

レオナルド・ダ・ヴィンチアンドレア・デル・ヴェロッキオの共作とされる『受胎告知(Annunciazione)』は1472年から1475年頃に描かれた。ルカ福音書にある大天使ガブリエルがキリスト受胎を告げるために聖母マリアのもとを訪れた場面が描かれている。ガブリエルが手にしている百合の花は、マリアの処女性とフィレンツェの象徴。レオナルドは、ガブリエルの背中の翼を描くのに飛翔する鳥の翼を模写したとされ、ダヴィンチの科学者らしい一面を覗かせている。なお、この翼は後世の画家によって長く伸びた翼に描き直されたともいわれる。

Palazzo Vecchio

ヴェッキオ宮殿は、初めはフィレンツェ共和国(トスカーナ公国)の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿に移るまでここを住居とした。500人広間(Salone dei Chinquecento)は、ヴァザーリとその工房による天井画や壁画で装飾されている。

2016年8月20日、ローマ市内散策

前の晩にフィレンツェからローマに移動。早朝から、ローマ市内を散策。

Basilica di Santa Maria Maggiore

サンタ・マリア・マッジョーレ(Basilica di Santa Maria Maggiore)は、ローマにあるカトリック教会の聖堂で、教皇が建築させたローマの四大バジリカ(古代ローマ様式の聖堂)の一つ。「偉大なる聖母マリアにささげられた聖堂」の意で、教皇リベリウスがマリアの雪の降るところに建てるようにとのお告げを受け、5世紀に古代キュベレ神の神殿があった場所に築かれた。入口扉にはブロンズ製の聖母マリアの彫像があり、聖母マリアに招かれるようにして教会内に入る。

Basilica di Santa Maria Maggiore
Basilica di Santa Maria Maggiore

マジョーレ教会内には、身廊と側廊を隔てる大理石の柱列が並び、主祭壇は天蓋で覆われ、後陣にはマリア戴冠のモザイク画が描かれている。全体的に大理石の美しい荘厳な雰囲気に包まれた教会である。

Galleria Colonna

名家コロンナ家のコレクションを展示しているコロンナ美術館(Galleria Colonna)を訪れた。映画「ローマの休日(Roman Holiday)」の舞台としても有名な大理石造りの重厚な広間は目を見張るほど豪華絢爛である。壁には16~17世紀の絵画や彫像で埋め尽くされていて圧巻である。

Il mangia fafioli, Annibale Carracci, Galleria Colonna

バロック期の画家アンニーバレ・カラッチによって1580年代に描かれた豆を食べる男(Il mangia fagioli)』もここに展示されている。豆を食べる農夫の素朴さと生活感が見事に表現されている。

Pantheon

パンテオン(Pantheon)、紀元前27~25年にかけてアグリッパが創建、118年にハドリアヌス帝が再建。丸天井の天窓から神々しい光が差し込んでいる。ミケランジェロは天使の設計であると称賛。

Basilica di San Pietro

ヴァティカン(Vatican)のサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)に向かう。4世紀に聖ペテロの墓の上にバジリカが建てられたことに始まる。1452年のニコラウス5世による再建の命に基づき、ブラマンテ、サンガッロ、ラファエロ、ミケランジェロらが再建に取り組み、1626年に完成。広場はベルニーニの設計、半円形の回廊にはドーリス式円柱284本が並ぶ。

Pieta, Michelangelo Buonarroti, Vatican

ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti)の『サン・ピエトロのピエタ(Pieta, Vatican)』(1498~1500年)は「ピエタ」を題材とする作品の中でも第一に挙げられる。古典的な調和、美、抑制というルネサンスの理想の最終到達点ともいうべき完成度を誇り、ミケランジェロの作品の中でもとりわけ洗練され精緻を極めたものとなっている。ミケランジェロは、故郷フィレンツェの政情不安や芸術の中心地ローマへの関心から、1496年以来ローマに滞在していたが、元サン・ドニ修道院長のフランス人枢機卿ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラからピエタの制作を依頼されたとされる。

Scuola di Atene, Raffaello Santi

ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)アテナイの学堂(Scuola di Atene)、ラファエロの間(Stanze di Raffaello)を飾る。ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年から1510年に描かれた。ルネサンス盛期の古典的精神を見事に具現化 。描かれている人々は古代ギリシアの哲学者達。中央の2人、プラトンは指を天に向け、アリストテレスは掌で地を示すが、プラトンのイデア論、アリストテレスの現実的な哲学を対照的に象徴しているとされる。