伊豆箱根湘南風土記(7)鎌倉と禅

鎌倉と禅

禅宗は開祖達磨によって六世紀前半に中国に伝えられた。栄西は1168年、1187年に宋に渡り日本の臨済宗の祖となった。その後も臨済宗は幕府の保護を受けながら、建長寺、円覚寺が、蘭渓道隆、無学祖元をそれぞれの開山として、日本の臨済宗の中心として発展し、禅と武士を結びつける大きな役割を果たした。禅宗は自力本願であり、坐禅によって自ら悟りを開くことを重んじる。坐禅は、精神を統一して悟りを求める古代インドの修行形式の一つである。常に戦場にあった武士は、人生の無常観と罪の意識に目覚めるに連れ、自らの生き方を問うため禅の教えを学び実践した。禅宗修行者が雲水と呼ばれるのは、行雲流水、行方を定めずひたすら良師を求めて歩く様を雲と水に例えた呼び名とされ、今でも雲水が托鉢を行い、一般家庭を訪ねている。

鎌倉時代、北条氏は南宋にならって五山制度(禅宗の格付け)を取り入れたが、鎌倉幕府滅亡後、京都を中心に順位が定められた。室町幕府三代将軍足利義満は鎌倉五山を建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の順で定めた。

鎌倉と京都の五山の禅僧が生み出した漢詩文を五山文学と称する。

なお、栄西の弟子で、明全に師事した道元は1223年宋に渡り、曹洞宗を日本に伝え、越前永平寺を建て修行に専念した。五代執権時頼に請われて鎌倉を訪れたものの鎌倉での寺院建立を固辞し、永平寺に戻ったとされる。臨済宗が貴族、武士階級に広まったのに対して、曹洞宗は庶民に浸透していった。

伊豆箱根湘南風土記(6)鎌倉 銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社は、鎌倉駅を降りて北西方面に静かな小径を15分ほど歩いて行った先に位置する。

祭神は、本宮が市杵島姫命、奥宮が弁財天である。1185年の巳の月の巳の日、頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、西北の仙境に湧き出す霊水で神仏を祀れば国内は平穏になると告げたとされる。頼朝は夢のお告げどおりに泉を発見し、宇賀福神を祀ったという。五代執権北条時頼は、金銭をこの水で洗い清めると同時に己の心身を清め、行いを慎めば不浄の塵垢が消えて清浄の福銭になると人々に勧め、自らも率先して金銭を洗い清め、一族の繁栄を祈ったとされる。以来、多くの参詣者で賑わうようになったとのことである。

伊豆箱根湘南風土記(5)鎌倉 円覚寺

円覚寺

北鎌倉駅を降りると駅のすぐ脇に円覚寺の山門がある。

鎌倉には百十余りの寺院が点在するがその三分の一は臨済宗が占めている。栄西は宋に渡り禅宗を学び坐禅によって自力で悟りを開くことを重んじた。栄西は1200年に北条政子によって寿福寺に迎えられ住持となった。鎌倉武士達は栄西が伝えた宋の禅宗に新鮮な魅力を感じた。臨済宗は幕府の保護を受け、栄西没後も門下の高弟により発展した。蘭渓道隆は宋風の本格的な臨済宗を広め、1253年建長寺の開山となり、幕府と禅宗は強く結びついていった。蘭渓道隆没後、八代執権北条時宗に招かれた無学祖元が円覚寺を開山し、臨済宗は更に鎌倉の地に根付いていった。

円覚寺は臨済宗円覚寺派大本山で、鎌倉五山第二位。文永、弘安の役の二度にわたる元との戦いで死んだ兵の菩提を弔うため、1282年時宗が無学祖元を開山に招いて建立した。寺名は起工の際に地中から円覚経を納めた石櫃が掘り出されたことによるとされる。鎌倉幕府滅亡後も夢窓疎石が住職につき、後醍醐天皇の力もあって繁栄し、塔頭も四十二を数えた。塔頭の一つ佛日庵は時宗の廟所とされる。

因みに、鎌倉には2000年まで松竹大船撮影所があった関係もあり多くの映画人や文化人が住んでいた。円覚寺本山墓地には小津安二郎の墓があり、墓碑には「無」と刻まれている。また、塔頭松嶺院には交通事故で他界した佐田啓二が眠っている。

伊豆箱根湘南風土記(4)鎌倉 建長寺

建長寺

北鎌倉駅を降りて鎌倉方面に10分ほど歩いたところに建長寺がある。

建長寺は臨済宗建長寺派の大本山、鎌倉五山第一位の寺で、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を開山に招いて開いた。日本で最初の禅専門道場の禅寺である。寺名は創建時の年号1253年(建長5年)に由来する。地獄谷と呼ばれた刑場跡地に建てられた。

鎌倉末期には三門、仏殿、庫裡、僧堂、衆寮などが回廊によって結ばれていたが、このような建長寺の中国様式の建築法が日本の禅寺の元となったとされる。

蘭渓道隆は野菜の皮やヘタを無駄にしないようにけんちん汁を発案したと伝えられるが建長汁が転訛したとのことである。

建長寺三門再建に際して境内に棲む狸が日ごろのお礼にと和尚に化けて勧進したとの伝説もある。

また、建長寺が創建されるまで蘭渓道隆が滞在していた元建長寺の異名のある常楽寺の仏殿天井には狩野雪信による雲龍があるが、この龍は毎夜水を飲みに出かけるためお堂がミシミシと鳴って困ったため、出歩かないように両目を塗りつぶしたところ音が鳴りやんだとの逸話が残されていて、今も目には瞳が描かれていないとのこと。

伊豆箱根湘南風土記(3)謡曲「鉢の木」に伝わる鎌倉武士の気風

謡曲「鉢の木」に伝わる鎌倉武士の気風

五代執権北条時頼が執権を退いた晩年に諸国を遊行したときの伝説を伝える謡曲「鉢の木」というのがある。当時の鎌倉武士の気風を伝える話として興味深いので抜き書きしてみた。

ある大雪の夕暮れ、下野国佐野荘の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。家主はそれが時頼であるとも知らず、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は佐野源左衛門尉常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族に土地を奪われ落ちぶれたと身の上を語る。いろりの薪が尽きて火が消えかかったが、継ぎ足す薪も無いので秘蔵の松・梅・桜の鉢の木を持ち出し、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべた。今はすべてを失った身の上だが、鎧となぎなたと馬だけは残してあり、いざ鎌倉という時には痩せ馬にまたがってでも一番に馳せ参じて戦う覚悟であると語る。

年があけて、突然鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も古鎧に身をかため、痩せ馬に乗って駆けつけるが、鎌倉につくと、常世は北条時頼の御前に呼び出された。諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏した常世に時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地、加賀国梅田荘、越中国桜井荘、上野国松枝荘を恩賞として与えたという話である。