伊豆箱根湘南風土記(12)鎌倉 円覚寺帰源院

円覚寺帰源院

円覚寺の山門を潜って右手奥に進むと帰源院という名の塔頭がある。普段は観光客は入れないとのことであるが、と或るきっかけからこの塔頭の存在を知る機会を得た。

この帰源院にはかつて漱石が短期間ではあるが滞在し、その間に小説「門」を創作したとのことである。当時の漱石自身の心境を基に、親友に対する裏切りに悩み葛藤する青年の心情を描いた作品とされる。帰源院に至る坂道の手前に横長の手水台があり、その側面には「漱石」と記されている。夏目漱石はこの手水台に記された文字を自分のペンネームにしたと言われているようである。何気無いひっそりとした佇まいではあるが、歴史を耳にすると妙に更に詳しく知りたい気持ちに駆られる思いがした。

伊豆箱根湘南風土記(11)鎌倉 栄西の茶

栄西の茶

鎌倉にある寿福寺は源頼朝の妻北条政子の創建による寺であるが、その開山は日本に初めて臨済禅を伝えたとされる栄西である。

栄西は、宋から茶も持ち帰り、茶と桑の効用について述べた『喫茶養生記』を著し、三代将軍実朝に献上したと伝えられている。

日本の喫茶の始まりは、栄西によるものということですね。

伊豆箱根湘南風土記(10)鎌倉五名水

鎌倉五名水

水に恵まれない鎌倉にあって、質の良い清水が湧き出る泉をもって五名水とされ、新編鎌倉誌に鎌倉に五名水ありと記されている。

梶原太刀洗水、金龍水、銭洗水、日蓮乞水、不老水の5つ。梶原太刀洗水は、朝比奈切通途中にあり、梶原景時が上総介広常を謀反ありとして討ちとり、血の付いた太刀をそこで洗ったとされる。

銭洗水は銭洗弁財天宇賀福神社岩窟に湧き出る清水で、源頼朝の夢に現れたとされる。北条時頼がこの水で金銭を清めると清浄の福銭になると人々に勧めたことから、商売繁盛を願う参詣者が訪れるようになったとされる。

日蓮乞水は、名越切通を越えて鎌倉に入った日蓮が水を求めて杖を突き立てたところに泉が湧き出て、以後涸れることがなかったとされる。

不老水は建長寺境内にあったとされるが不明、金龍水は建長寺門前にあったとされるが工事で埋められて現存しない。

名水はいつの世も歴史を生み出すものであり、当時の争いや人々の思想を映し出している。

伊豆箱根湘南風土記(9)鎌倉の「鉄ノ井」

鎌倉の「鉄ノ井」

鎌倉十井の一つに「鉄ノ井」(くろがねのい)と呼ばれる伝説の井戸がある。その水は涸れたことがないとされる。
多くの観光客で賑わう小町通りのはずれ、鶴岡八幡宮から見れば正面の鳥居を出て右手にある。

昔、井戸を掘った際に鉄の観音像の頭の部分が出てきたことから名づけられたと言われる。
鉄観音像は、京都清水観音を信仰していた北条政子が創建した鎌倉新清水寺(既に廃寺となっているが、現在の浄光明寺近くに所在していたとされる)に本尊として安置されていたものとされる。出てきた頭部は、江戸時代まで井戸の前にあった鉄観音堂に安置されていたが、神仏分離令により観音堂が取り壊されたため、現在は東京人形町の大観音寺の本尊となっている。

正嘉二年(1258)に安達泰盛の甘縄屋敷から出火し、 折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、 総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、 若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に記されているとのこと。この井戸から掘出された観音像の首は、 この火災のときに土中に埋めたのを掘り出したもので、頭部だけで高さは1m70cmと人の背丈と同じ大きなもので、顔の幅は50cmの菩薩型の鋳鉄製である。

小さな物語ではあるが、観音像一つにも当時の人々の信仰やら災難を偲ばせる深い歴史があるものと感動を覚える次第である。

伊豆箱根湘南風土記(8)鎌倉七福神めぐり

鎌倉七福神めぐり

鎌倉への観光客の間で人気なのが七福神めぐり。

七福神の信仰が現在のように定着したのは室町時代末期といわれる。

鎌倉七福神の推奨コースは、布袋尊(浄智寺)、弁財天(鶴岡八幡宮)、毘沙門天(宝戒寺)、寿老人(妙隆寺)、恵比寿(本覚寺)、大黒天(長谷寺)、福禄寿(御霊神社)とされている。これに江島神社の弁財天を加えて鎌倉、江之島七福神となり満願となるそうな。