伊豆箱根湘南風土記(21)鎌倉 宝戒寺

鎌倉、宝戒寺を訪ねた。周辺には北条家代々の屋敷があったが、1333年、新田義貞による鎌倉攻めにより北条一族は滅び、邸も焼かれたとされる。その3年後、一族の霊を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、邸跡に宝戒寺を建立した。本堂には、本尊子育経読地蔵大菩薩像、唐仏地蔵尊などが安置されているほか、毘沙門天像が祀られている。毘沙門天は仏教の四天王の一人で、病魔退散、財宝富貴の福伸である。

本堂前の梅は枝ぶりが力強く、また花も見事に咲いていた。

境内の椿も見ごろである。秋の彼岸頃には、萩や白彼岸花が咲き誇るとのことである。

寺裏の南東の山手を少し昇った所に、新田義貞の鎌倉攻めにより滅んだ最後の執権北条高時ら一族八百七十余名が自害したとされる腹切りやぐらがある。凄惨な最期が偲ばれる場所であった。

(かまくら春秋社『鎌倉の寺小辞典』参照)

 

伊豆箱根湘南風土記(20)鎌倉 旗上弁財天

鎌倉、鶴岡八幡宮、源平池の中島にある鎌倉七福神の一つである旗上弁財天を訪ねた。源頼朝が平家滅亡を祈願したとされる弁天社であり、武運長久、大願成就、芸能成就の福神とされる。

弁財天社の奥裏には、『政子石』が置かれている。縁結びの石とされる。

空には、鳶の声が、池には都鳥のような鳥が。。。

伊豆箱根湘南風土記(19)鎌倉 浄智寺

鎌倉の浄智寺を訪ねた。五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため、宗政夫人と息子師時が1281年に創建した鎌倉五山第四位の禅刹とされる。

総門を潜ると唐草模様の鐘楼門がある。

本堂である曇華殿には、過去、現在、未来を示す阿弥陀、釈迦、弥勒の座像が安置されている。

境内の典雅なしだれ梅が目に留まった。

裏手には萱葺きの書院があり、臥龍式の渡り廊下とともに風雅を感じさせる。

マリアとキリスト像なのだろうか。意外な彫像が置かれていた。

右手奥には、七福神の一つ、布袋尊が祀られている。弥勒菩薩の別の姿であるともいわれ、知恵を授け、福徳円満をもたらしてくれる神様であるとされる。実に良いお顔をされていた。

境内には、安藤寛、『結界に降る雨あしは光りつつ、深き杉生のみどりにしづ舞』などの歌碑もある。

境内には、梅のほかにも、牡丹、福寿草、水仙などの花々も美しく咲いていた。

総門手前の石の太鼓橋の傍には、鎌倉十井の一つ、甘露ノ井がある。

(かまくら春秋『鎌倉の寺』参照)

伊豆箱根湘南風土記(18)鎌倉 東慶寺

鎌倉の東慶寺を訪ねた。駆け込み寺として知られ、かつては尼寺であった。開山は覚山尼、八代執権北条時宗の妻であり、法名は無学祖元から受けたとされる。後醍醐天皇の皇女、五世用堂尼以来栄えたとされ、墓地奥には、皇女用堂尼の墓が祀られている。用堂尼以降、松ヶ岡御所とも呼ばれ、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられた。二十世天秀尼は、豊臣秀頼の娘であり、家康の娘千姫の養女でもあったので、江戸時代には徳川家の厚い庇護を受けたとされる。

境内には梅が美しく咲いていた。水月観音像の拝観は叶わなかったが、室町時代の作である本尊木造釈迦如来坐像などは拝観ができた。墓地には、高見順、和辻哲郎、田村俊子など多くの作家、学者が眠っている。

(かまくら春秋『鎌倉の寺』参照)

伊豆箱根湘南風土記(17)鎌倉 鏑木清方記念美術館

 

鎌倉小町通りを少し脇に入ったところに近代日本画の巨匠鏑木清方画伯の記念美術館がある。小町通りを僅かに外れるだけで街には静寂が漂っている。美術館があるのは鏑木清方画伯の終焉の地。この美術館の土地建物、作品、資料はご遺族の寄付によるものとのことである。

画伯は明治11年、神田佐久間町に生まれる。父はジャーナリストであるとともに人情本作家。画伯は13歳から水野年方に浮世絵を学ぶととともに、17歳からは父親が経営する「やまと新聞」に挿絵を描き始めた。文学、歌舞伎、オペラなどにも幅広く関心を広げ、泉鏡花や樋口一葉などの文学や庶民生活を題材に数多くの作品を残した。また、画伯は、作品の一つ一つにその作品を描いたときの心情を書き記していて、素晴らしい著作が残されている。自然や庶民の生活に対する繊細な感覚や洞察の細やかさが絵画のみならず清方の『ことば』にも現れている。美術館には、画伯自身の生涯を詳細に記した『こしかたの記』という書籍が置かれていて、大変興味を感じたので、手にはいるようであれば読んでみようと思う。

今回の展示作品では、テーマにある『早春』やアズールなどの顔料で美しく繊細に描かれた『しらうお』など、たくさんの傑作が展示されていた。