伊豆箱根湘南風土記(6)鎌倉 銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社は、鎌倉駅を降りて北西方面に静かな小径を15分ほど歩いて行った先に位置する。

祭神は、本宮が市杵島姫命、奥宮が弁財天である。1185年の巳の月の巳の日、頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、西北の仙境に湧き出す霊水で神仏を祀れば国内は平穏になると告げたとされる。頼朝は夢のお告げどおりに泉を発見し、宇賀福神を祀ったという。五代執権北条時頼は、金銭をこの水で洗い清めると同時に己の心身を清め、行いを慎めば不浄の塵垢が消えて清浄の福銭になると人々に勧め、自らも率先して金銭を洗い清め、一族の繁栄を祈ったとされる。以来、多くの参詣者で賑わうようになったとのことである。

伊豆箱根湘南風土記(5)鎌倉 円覚寺

円覚寺

北鎌倉駅を降りると駅のすぐ脇に円覚寺の山門がある。

鎌倉には百十余りの寺院が点在するがその三分の一は臨済宗が占めている。栄西は宋に渡り禅宗を学び坐禅によって自力で悟りを開くことを重んじた。栄西は1200年に北条政子によって寿福寺に迎えられ住持となった。鎌倉武士達は栄西が伝えた宋の禅宗に新鮮な魅力を感じた。臨済宗は幕府の保護を受け、栄西没後も門下の高弟により発展した。蘭渓道隆は宋風の本格的な臨済宗を広め、1253年建長寺の開山となり、幕府と禅宗は強く結びついていった。蘭渓道隆没後、八代執権北条時宗に招かれた無学祖元が円覚寺を開山し、臨済宗は更に鎌倉の地に根付いていった。

円覚寺は臨済宗円覚寺派大本山で、鎌倉五山第二位。文永、弘安の役の二度にわたる元との戦いで死んだ兵の菩提を弔うため、1282年時宗が無学祖元を開山に招いて建立した。寺名は起工の際に地中から円覚経を納めた石櫃が掘り出されたことによるとされる。鎌倉幕府滅亡後も夢窓疎石が住職につき、後醍醐天皇の力もあって繁栄し、塔頭も四十二を数えた。塔頭の一つ佛日庵は時宗の廟所とされる。

因みに、鎌倉には2000年まで松竹大船撮影所があった関係もあり多くの映画人や文化人が住んでいた。円覚寺本山墓地には小津安二郎の墓があり、墓碑には「無」と刻まれている。また、塔頭松嶺院には交通事故で他界した佐田啓二が眠っている。

伊豆箱根湘南風土記(4)鎌倉 建長寺

建長寺

北鎌倉駅を降りて鎌倉方面に10分ほど歩いたところに建長寺がある。

建長寺は臨済宗建長寺派の大本山、鎌倉五山第一位の寺で、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を開山に招いて開いた。日本で最初の禅専門道場の禅寺である。寺名は創建時の年号1253年(建長5年)に由来する。地獄谷と呼ばれた刑場跡地に建てられた。

鎌倉末期には三門、仏殿、庫裡、僧堂、衆寮などが回廊によって結ばれていたが、このような建長寺の中国様式の建築法が日本の禅寺の元となったとされる。

蘭渓道隆は野菜の皮やヘタを無駄にしないようにけんちん汁を発案したと伝えられるが建長汁が転訛したとのことである。

建長寺三門再建に際して境内に棲む狸が日ごろのお礼にと和尚に化けて勧進したとの伝説もある。

また、建長寺が創建されるまで蘭渓道隆が滞在していた元建長寺の異名のある常楽寺の仏殿天井には狩野雪信による雲龍があるが、この龍は毎夜水を飲みに出かけるためお堂がミシミシと鳴って困ったため、出歩かないように両目を塗りつぶしたところ音が鳴りやんだとの逸話が残されていて、今も目には瞳が描かれていないとのこと。

伊豆箱根湘南風土記(3)謡曲「鉢の木」に伝わる鎌倉武士の気風

謡曲「鉢の木」に伝わる鎌倉武士の気風

五代執権北条時頼が執権を退いた晩年に諸国を遊行したときの伝説を伝える謡曲「鉢の木」というのがある。当時の鎌倉武士の気風を伝える話として興味深いので抜き書きしてみた。

ある大雪の夕暮れ、下野国佐野荘の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。家主はそれが時頼であるとも知らず、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は佐野源左衛門尉常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族に土地を奪われ落ちぶれたと身の上を語る。いろりの薪が尽きて火が消えかかったが、継ぎ足す薪も無いので秘蔵の松・梅・桜の鉢の木を持ち出し、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべた。今はすべてを失った身の上だが、鎧となぎなたと馬だけは残してあり、いざ鎌倉という時には痩せ馬にまたがってでも一番に馳せ参じて戦う覚悟であると語る。

年があけて、突然鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も古鎧に身をかため、痩せ馬に乗って駆けつけるが、鎌倉につくと、常世は北条時頼の御前に呼び出された。諸将の居並ぶ中、破れ鎧で平伏した常世に時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉に偽りなく、馳せ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地、加賀国梅田荘、越中国桜井荘、上野国松枝荘を恩賞として与えたという話である。

伊豆箱根湘南風土記(2)鎌倉の歴史

鎌倉の歴史

鎌倉の歴史を簡単に辿ってみよう。

鎌倉の地に人が住み始めたのは今から一万年以上前の後期旧石器時代の頃とされる。この頃は、火山活動が盛んで富士や箱根の山も噴煙を上げていたとのことである。

縄文時代前期頃までは海岸線は現在より陸地奥深く入り込んでいて、鎌倉の湾も鶴岡八幡宮前辺りまで及び、大船なども入江になっていたとされる。中期には温暖な気候の下、人口も増加し、土器も厚く大型な円筒形や深鉢形のものも作られていたようである。縄文後期には気候は寒冷化し、海も後退し陸地が広がり、土器の形も注口や香炉形など複雑なものも作られていた。

弥生時代には海岸線は更に現在の位置に近いところまで後退した。弥生中期には稲作と薄く赤みの強い、また造形もおとなしい宮ノ台式土器、更に金属器使用を伴う弥生文化が確認されている。

古墳時代後期には、和田塚に代表される向原古墳群が存在した。また、竪穴住居、山腹の横穴墓などが確認されている。

奈良時代、相模国国府が平塚に置かれていた当時、鎌倉にも郡の役所が置かれていた。鎌倉は万葉集にも詠まれている。長谷寺、杉本寺なども奈良時代に建立されたと伝えられている。

平安時代、鎌倉郡は7つの郷に分かれ、玉輪荘、山内荘など荘園も生まれていた。この時代には坂ノ下御霊神社、二階堂荏柄天神社などの寺社が建てられたとされる。

鎌倉と源氏の関係は、源頼信、頼義父子が、1031年房総の平忠常の乱を平定し、頼義が桓武平氏平直方の婿として鎌倉に迎えられたことに始まるとされる。その後、陸奥守に任じられた頼義は、1062年前九年役で豪族安倍氏を討ち、その翌年由比若宮を創建、奥州での勝利を祈願した源氏の氏神京都山城岩清水八幡宮を勧請したとされる。1081年には頼義の子、義家が由比若宮の社殿を修築し、翌々年には豪族清原氏の内紛に介入して出兵(後三年役)、鎌倉権五郎景政など坂東武者達に恩賞を与え、信頼を深めたとされる。義家の曾孫源義朝は、鎌倉之楯を拠点に東国で活動していたが、1144年には大庭御厨(伊勢神宮荘園)へ侵入する事件が発生。1156年、保元の乱では義朝は平清盛とともに天皇方につき勝者となるものの、3年後の平治の乱では藤原信頼に味方して清盛軍と戦い敗死。

1180年、義朝の子源頼朝が配流先の伊豆国で打倒平氏のため挙兵。頼朝は石橋山合戦で大庭景親に敗れるも、安房国に渡り、武蔵国から鎌倉、大倉御所に入り、関東武士から鎌倉の主として仰がれた。1185年、平氏を滅ぼした頼朝は、奥州平泉にかくまわれていた義経を藤原泰衡に討たせ、更に泰衡を奥州合戦で滅ぼし、1192年征夷大将軍に任じられた。ここに鎌倉を本拠とする武家政権鎌倉幕府が誕生。頼朝は鶴岡八幡宮を町の中心に据え、若宮大路を整備するとともに、御家人統率のための侍所、政務を担当する政所、訴訟を担当する問注所を設置、また各地には、御家人を統率する守護、没収した敵方武士領地を支配する地頭が置かれた。

頼朝の子二代将軍頼家は、妻の父比企能員と関係を強め、祖父北条時政、母政子と対立。1203年、時政は比企氏を滅ぼすとともに、頼家を伊豆修善寺に幽閉し暗殺。

頼家の弟実朝が三代将軍になると、母政子と叔父北条義時が政治を補佐。政所別当義時は1213年侍所別当和田義盛を滅ぼし、両別当を兼ね、地位を固めた。1219年、実朝が鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際頼家の子公暁により暗殺され、源氏将軍は三代で断絶し、政子が実質的指導者となり尼将軍と呼ばれた。

将軍後継者には頼朝の遠縁藤原道家の子三寅(のちの頼経)が鎌倉に迎えられた。実朝は藤原定家に師事し和歌に親しみ、金槐和歌集を編むなど京風文化摂取に積極的で後鳥羽上皇とも親密な関係にあった。1221年には後鳥羽上皇が二代執権義時追討の命を発して挙兵、承久の乱が起こったが、幕府側の勝利で終結。

1225年政子が死去すると、三代執権北条泰時は頼経を将軍に任官させ御所を大倉から宇津宮辻子に移した。泰時は最初の武家の法典御成敗式目を制定したほか、和賀江嶋築港支援、朝夷奈切通整備等に取り組み、また合議制による執権政治を行った。

孫の五代執権時頼は藤原将軍にかえて後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎え、以後滅亡まで親王を将軍とした。

時頼の子八代執権時宗の時代には、1274年、1281年の2度にわたり元の軍隊が襲来(文永、弘安の役)、撤退した。その間、元の使者杜世忠は龍口で斬られたとされる。この時期、北条氏の独裁色が強まり、得宗時宗を中心に得宗専制政治が敷かれた。

九代執権貞時の時代には、外戚安達泰盛が貞時の家臣平頼綱に滅ばされるという霜月騒動が起こったが、頼綱も貞時により滅ばされた。

鎌倉後期には3度目のモンゴル襲来防備のため御家人の経済負担が増し幕府への不満が高まった。1333年後醍醐天皇の討幕運動に呼応して足利尊氏の子千寿王を擁した新田義貞らにより鎌倉は攻撃され、14代執権北条高時ら一門と家臣が自害して鎌倉は陥落。京都では六波羅探題が足利尊氏によって攻撃され、鎌倉幕府は滅亡した。

中国から伝えられた禅宗が武家社会に広く受け入れられ、臨済宗を伝えた栄西は政子の発願により寿福寺を開山。蘭渓道隆は時頼が建立した建長寺の開山、無学祖元は時宗が建立した円覚寺の開山となった。