伊豆箱根湘南風土記(11)鎌倉 栄西の茶

栄西の茶

鎌倉にある寿福寺は源頼朝の妻北条政子の創建による寺であるが、その開山は日本に初めて臨済禅を伝えたとされる栄西である。

栄西は、宋から茶も持ち帰り、茶と桑の効用について述べた『喫茶養生記』を著し、三代将軍実朝に献上したと伝えられている。

日本の喫茶の始まりは、栄西によるものということですね。

伊豆箱根湘南風土記(10)鎌倉五名水

鎌倉五名水

水に恵まれない鎌倉にあって、質の良い清水が湧き出る泉をもって五名水とされ、新編鎌倉誌に鎌倉に五名水ありと記されている。

梶原太刀洗水、金龍水、銭洗水、日蓮乞水、不老水の5つ。梶原太刀洗水は、朝比奈切通途中にあり、梶原景時が上総介広常を謀反ありとして討ちとり、血の付いた太刀をそこで洗ったとされる。

銭洗水は銭洗弁財天宇賀福神社岩窟に湧き出る清水で、源頼朝の夢に現れたとされる。北条時頼がこの水で金銭を清めると清浄の福銭になると人々に勧めたことから、商売繁盛を願う参詣者が訪れるようになったとされる。

日蓮乞水は、名越切通を越えて鎌倉に入った日蓮が水を求めて杖を突き立てたところに泉が湧き出て、以後涸れることがなかったとされる。

不老水は建長寺境内にあったとされるが不明、金龍水は建長寺門前にあったとされるが工事で埋められて現存しない。

名水はいつの世も歴史を生み出すものであり、当時の争いや人々の思想を映し出している。

伊豆箱根湘南風土記(9)鎌倉の「鉄ノ井」

鎌倉の「鉄ノ井」

鎌倉十井の一つに「鉄ノ井」(くろがねのい)と呼ばれる伝説の井戸がある。その水は涸れたことがないとされる。
多くの観光客で賑わう小町通りのはずれ、鶴岡八幡宮から見れば正面の鳥居を出て右手にある。

昔、井戸を掘った際に鉄の観音像の頭の部分が出てきたことから名づけられたと言われる。
鉄観音像は、京都清水観音を信仰していた北条政子が創建した鎌倉新清水寺(既に廃寺となっているが、現在の浄光明寺近くに所在していたとされる)に本尊として安置されていたものとされる。出てきた頭部は、江戸時代まで井戸の前にあった鉄観音堂に安置されていたが、神仏分離令により観音堂が取り壊されたため、現在は東京人形町の大観音寺の本尊となっている。

正嘉二年(1258)に安達泰盛の甘縄屋敷から出火し、 折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、 総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、 若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に記されているとのこと。この井戸から掘出された観音像の首は、 この火災のときに土中に埋めたのを掘り出したもので、頭部だけで高さは1m70cmと人の背丈と同じ大きなもので、顔の幅は50cmの菩薩型の鋳鉄製である。

小さな物語ではあるが、観音像一つにも当時の人々の信仰やら災難を偲ばせる深い歴史があるものと感動を覚える次第である。

伊豆箱根湘南風土記(8)鎌倉七福神めぐり

鎌倉七福神めぐり

鎌倉への観光客の間で人気なのが七福神めぐり。

七福神の信仰が現在のように定着したのは室町時代末期といわれる。

鎌倉七福神の推奨コースは、布袋尊(浄智寺)、弁財天(鶴岡八幡宮)、毘沙門天(宝戒寺)、寿老人(妙隆寺)、恵比寿(本覚寺)、大黒天(長谷寺)、福禄寿(御霊神社)とされている。これに江島神社の弁財天を加えて鎌倉、江之島七福神となり満願となるそうな。

伊豆箱根湘南風土記(7)鎌倉と禅

鎌倉と禅

禅宗は開祖達磨によって六世紀前半に中国に伝えられた。栄西は1168年、1187年に宋に渡り日本の臨済宗の祖となった。その後も臨済宗は幕府の保護を受けながら、建長寺、円覚寺が、蘭渓道隆、無学祖元をそれぞれの開山として、日本の臨済宗の中心として発展し、禅と武士を結びつける大きな役割を果たした。禅宗は自力本願であり、坐禅によって自ら悟りを開くことを重んじる。坐禅は、精神を統一して悟りを求める古代インドの修行形式の一つである。常に戦場にあった武士は、人生の無常観と罪の意識に目覚めるに連れ、自らの生き方を問うため禅の教えを学び実践した。禅宗修行者が雲水と呼ばれるのは、行雲流水、行方を定めずひたすら良師を求めて歩く様を雲と水に例えた呼び名とされ、今でも雲水が托鉢を行い、一般家庭を訪ねている。

鎌倉時代、北条氏は南宋にならって五山制度(禅宗の格付け)を取り入れたが、鎌倉幕府滅亡後、京都を中心に順位が定められた。室町幕府三代将軍足利義満は鎌倉五山を建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の順で定めた。

鎌倉と京都の五山の禅僧が生み出した漢詩文を五山文学と称する。

なお、栄西の弟子で、明全に師事した道元は1223年宋に渡り、曹洞宗を日本に伝え、越前永平寺を建て修行に専念した。五代執権時頼に請われて鎌倉を訪れたものの鎌倉での寺院建立を固辞し、永平寺に戻ったとされる。臨済宗が貴族、武士階級に広まったのに対して、曹洞宗は庶民に浸透していった。