伊豆箱根湘南風土記(16)鎌倉 壽福寺

鎌倉扇ガ谷にある壽福寺を訪ねた。鎌倉五山第三位の寺とされる。北条政子が、頼朝の遺志を叶えるため、栄西を招いて1200年に建立したとされる。この地は源頼朝の父、義朝の屋敷跡であり、またその昔、源義家が奥州征伐を勝利祈願した源氏山を背にした父祖伝来の地でもあるとされる。頼朝は最初この地に鎌倉幕府を設ける考えもあったようであるが、岡崎義実が義朝の菩提を弔う御堂を建てていたので諦めたとされる。

総門から中門まで木々に囲まれた細長い石畳が続き、中門奥にある本堂が静かな佇まいを見せている。中門から境内を覗くことができるが、仏殿本堂右手に白梅が美しく咲いていた。仏殿には釈迦如来像などが祀られているとのことだが、残念ながら現在は拝観することはできない。

仏殿裏手の静かな墓地の一角には、北条政子と三代将軍実朝の墓がある。裏山の岩を切り抜いた『やぐら』と呼ばれる祠に祀られており、それぞれの祠に五輪塔が置かれている。宇宙の構成要素である空、風、火、水、地を象徴する五輪塔は、インドを発祥とし、極楽浄土への往生の意味が込められているとされ、日本では平安末期以降見られるようになったとのことである。政子、実朝の墓の近くには、高浜虚子や大仏次郎などの著名人の墓も祀られていた。

栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた人であり、また宋から茶の苗を持ち帰り、『喫茶養生記』に茶の効用を記し、その著書を実朝に献上したとされる。

(かまくら春秋社『鎌倉の寺小辞典』参照)

伊豆箱根湘南風土記(15)鴫立庵

大磯鴫立沢にある鴫立庵を訪ねた。ここは300年以上続く俳諧道場であり、また湘南発祥の地であるともされる。

江戸時代初期寛文年間(1660年頃)に、小田原の外郎(ういろう)一族出身の崇雪(そうせつ)が石仏の五智如来像をこの地に運び、これを本尊として西行寺建立を目的として初めて庵を結んだとされる。平安時代末期の歌人、西行法師が大磯周辺の海岸を吟遊し、「心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮れ」と詠んだことから、崇雪は鴫立沢の標石を建てた。崇雪はまた鴫立沢の景色を、中国湘江の名南方一帯の「湘南」の景色に重ねて「著盡湘南清絶地」と碑に刻んだことから、「湘南」の名称発祥の地とされている。

入口はいって手前の鴫立庵室(写真上)は、元禄・宝永時代の初代庵主、伊勢出身の大淀三千風(おおよどみちかぜ)が建てたとされ、歴代庵主の住まいとして使われているとのことである。三千風以来、現在の第二十三世庵主、本井英(もといえい)に至るまで時代を超えて脈々と引き継がれているとのことで、まさに驚きである。鴫立庵室の奥が俳諧道場(写真下)で、三千風入庵後70年を経て増築されたとのことであり、「俳諧道場」の扁額が掛けられており、鴫立庵の正庵となっている。いずれも萱葺の風情のある建物である。

俳諧道場の奥には、円位堂がある。三千風が元禄時代に建てたままの建物で、この堂も厚い萱葺で被われている。堂内には等身大の西行法師の座像が安置されている。

俳諧道場の前には、法虎堂があり、三千風在庵の頃に江戸吉原から寄進された有髪僧体の虎御前十九歳の木像が安置されている。虎御前は大磯の遊女で、建久4年(1193年)の仇討ち事件で有名な曽我兄弟のうちの曽我祐成の妾であったが、無罪放免となるも出家して信濃善光寺に赴いたとされる。

鴫立庵の敷地奥には、崇雪が迎えた釈迦、阿弥陀、大日、阿閦(あしゅく)、宝勝の五仏の五智如来像が安置されている。

勝手口近くには、大磯出身で鋳金家でもあった第十五世庵主原昔人(はらせきじん)が正岡子規に贈った「蛙鳴蝉噪(あめいぜんそう)の蛙」の像が建てられている。

鴫立庵室の軒下には雛飾りが吊られていた。手作りのひな人形が見事であった。

伊豆箱根湘南風土記(14)石橋山古戦場及び佐奈田霊社


石橋山古戦場と佐奈田霊社を訪ねた。西湘バイパスを降りて、135号線を湯河原方面に進んだすぐの極めて細い道を昇ると、佐奈田霊社の駐車場に着く。一面がみかん畑であり、どの枝にもみかんが豊かに実っている。海には、紺碧の相模湾が広がっており、右手遠方には伊豆大島、そして左手遠方には湘南海岸が一望できる。

石橋山古戦場は、源頼朝が治承4年(1180年)に以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。これには相模の名族三浦氏、岡崎四郎義実やその子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。急な挙兵のため頼朝軍は300、これに対して平家側は相模の豪族、大庭景親、伊東祐親などが率いる3、000の兵力であった。佐奈田与一は僅か15騎ながら豪族大庭景親の弟、俣野五郎景久の75騎と戦い、俣野を組み敷き討たんとした時、刃についた血のりのため鞘から短刀が抜けず、逆に敵に討たれ、命を落とした。駆け付けた与一の郎党、文三家安も8人を討ち取るも、壮烈な戦死を遂げたとのことである。源頼朝らは土肥一族などに助けられて、無事落ち延びて、やがて平家を倒し、鎌倉幕府を開くことになったことは、広く知られているとおりである。

吾妻鏡によれば、源頼朝は建久元年(1190年)に伊豆山権現参詣の帰りに、与一と文三の墓を訪れ落涙したとされていることから、石橋山の戦いの後まもなく墓が築かれたようである。

佐奈田霊社には佐奈田与一が祀られた。仏寺であるが、一方、与一が天皇から神格化されたことから神社でもあり、霊社と呼ばれ、天皇家の人々も参拝しているとのことである。与一は討たれた時、声が出せなかったことから、お参りすると咳やのどに効用があるとされる。また、そのためか、明治、大正以降、東京の木遣の人々から多額の奉納がされている。本殿は大正期に建造されたようで、本殿前の小規模な建物が元々あった御堂であるとのことである。御堂の中には、干支観音が祀られているようであるが、中を見ることはできなかった。境内には、佐奈田与一の手附石が祀られ、与一の手形が石に残されている。また、魚を抱く魚籃観音の彫像が建てられていたのが珍しく目を引いた。

霊社下には、与一の組み討ちのあった「ねじれ畑」と呼ばれる畑が残っているが、この戦いの後、畑の作物が捻れて育つと謂われる。また、ねじれ畑のすぐ近くには、文三を祀った文三堂があり、内部の壁面には陶山文三公の肖像画が掲げられている。

伊豆箱根湘南風土記(13)伊豆 願成就院

 

今年は大河ドラマの「鎌倉殿の13人」が人気である。北条時政が源頼朝の奥州征討戦勝を祈念して建立したとされる願成就院を訪ねた。

願成就院に向かう前に昼食を「多賀」という老舗の蕎麦屋さんで蕎麦を美味しくいただいた。築後200年という瓦屋根が美しい店構えで、蕎麦屋としては40年の老舗とのこと。昼時で手入れの行き届いた庭先は順番を待つ客で溢れていた。千両、万両の赤い実が彩りを添え、見上げると胡桃もまだ小さいが実を膨らませていた。蕎麦寿司や帆立の天ぷらなどの珍味を味わった後、海老天蕎麦をいただいた。いずれも美味であった。品出しの手際の良さにも心地よさを感じた。

多賀から頼朝道と呼ばれる山道を抜けて伊豆の国へ。幾百年と変わらぬ景色であると感じさせる杉林、松林、薄が原を過ぎて韮山にある願成就院に着く。瓦屋根を被った木造の門を入ると左手奥に北条時政の墓がある。墓のすぐ脇には「時政のふるさとにのこす露の墓」と詠んだ秋櫻子の句碑がある。入口正面には御堂があり、運慶作の阿弥陀如来坐像など国宝五体が置かれている。当時の北条家の人々と運慶との交わりを窺い知ることができる。御堂左手には住職が居住する現本堂がある。1789年(寛政元年)建立とされるが、伊豆守山の山里の風景に溶け込んだ風情のある萱葺の建物である。洗心庭と名付けられた石庭がある。御堂脇には現代風のユーモア溢れる五百羅漢の石の彫り物が所狭しと並んでいる。願成就院は時政、義時、泰時によって築かれ、当時の伽藍は15世紀末の北条早雲による堀越御所(時政館)攻めの際焼失したものの、以降も北条家末裔の人々によって守られてきたようである。入口付近、柿の木の下には、北条家ゆかりの人々の墓が立ち並んでいるが、柿の実がたわわに実り、風情を醸し出していた。

御堂裏手には、昇り口近くに、八幡宮神楽殿があり、更に百段近い石段を昇ると、八幡宮本堂がある。頼朝が戦勝を祈願したとされる。

伊豆箱根湘南風土記(12)鎌倉 円覚寺帰源院

円覚寺帰源院

円覚寺の山門を潜って右手奥に進むと帰源院という名の塔頭がある。普段は観光客は入れないとのことであるが、と或るきっかけからこの塔頭の存在を知る機会を得た。

この帰源院にはかつて漱石が短期間ではあるが滞在し、その間に小説「門」を創作したとのことである。当時の漱石自身の心境を基に、親友に対する裏切りに悩み葛藤する青年の心情を描いた作品とされる。帰源院に至る坂道の手前に横長の手水台があり、その側面には「漱石」と記されている。夏目漱石はこの手水台に記された文字を自分のペンネームにしたと言われているようである。何気無いひっそりとした佇まいではあるが、歴史を耳にすると妙に更に詳しく知りたい気持ちに駆られる思いがした。