金継ぎ

何故今までこの金継ぎという文化に触れることがなかったのだろう。衝撃的である。わざわざ日本へ金継ぎを習いに来ているあるポーランド人のことが報道されていた。割れたり、欠けたりした器を漆で修復し、仕上げを金や銀で装飾する技術であるが、単に修復技術にとどまるのではなく、そこに新たな芸術を生み出している。ものを大切にすると同時に修復する中にまた新たな美を生み出すこの芸術の奥深さと背景にある哲学に感銘を覚えた。 

琉球紅型(りゅうきゅうびんがた)

琉球王国を象徴する琉球紅型(りゅうきゅうびんがた)のことを知ったのはつい最近のことである。

既に15世紀頃には存在しており、東南アジアや本土との交易の中で様々な技法を取り入れ、発展させていったとされる。江戸時代には古紅型とよばれるものが栄えたにもかかわらず、明治時代には王府廃止に伴い衰退したとされる。第二次世界大戦により焦土と化した沖縄にあって、王朝時代からの染物業の宗家である城間家、知念家などが紅型復興に努め、今日に至るとされる。

朱、黄、藍などの色の鮮やかな紋様、型染独特の風合いが美しい。もう30年以上も前のことになるが、インドネシアのバティックの美しさに感動したことがある。紅型の、特に藍色の紋様はそれにも似た風合いである。

(参照:首里琉染、wikipedia、NHKドキュメンタリー)

Batik

もう30年も前に仕事でフィリピンに住む機会があり、その頃インドネシアのバティックに触れた。女性のドレスやテーブルクロスなど、バティックの藍色の紋様を粋に感じたものである。インドネシアのバティックは、しばらく衰退していたものの、2009年にユネスコ世界無形文化遺産に登録されたこともあり、2010年代に復興したとのこと。2013年に亡くなった故ネルソンマンデラも愛好していたため、世界的にも広まったとのことである。 バティックはろうけつ染めで染められた布で、布地に蝋で模様を描き、染料や絵筆で着色する伝統的な技法で、1000年以上の歴史があるとされる。最近のバティックは自分が初めて見て感動したころの風合いとは異なるデザインのものが多いように見受けられるが、それも時代の変化を映しているのかも知れない。(参照:日経新聞2018.8.19)

Goya

1808年5月2日、ヨーロッパ征服の野望を抱くフランス皇帝ナポレオンによって派遣された軍隊に対してスペイン民衆は蜂起して戦ったが、翌5月3日フランス軍によって鎮圧され人々は処刑された。この事件を契機にスペイン全土でフランス軍とゲリラ戦が続いたが、フランス軍はゲリラとの戦闘に疲弊し、1814年にスペイン支配を断念した。しかし、王位に復位したフェルデナンド7世は、民衆の期待を裏切って自由主義を弾圧する圧政を始めた。ゴヤは、「5月3日マドリッドの銃殺刑」により、戦争がもたらす現実を冷徹な目で描いた。そして、1824年には自由を抑圧されたスペインを離れ、ボルドーに移り住み、死ぬまで絵筆を握り続けたとのことである。プラド美術館には、Aun Aprendo(それでもわしは学ぶぞ)と記された素描が残されているとのことである。 宮廷画家としてのゴヤ、「マハ」で有名なゴヤであるが、あらためてゴヤの真の内面を理解することができたように感じた。 いつの世になっても、人と人との争いは絶えることがないのだろうか。悲しい現実である。 (参照:日経新聞2018.8.19)

自ら時を刻む

風にそよぐカーテンの向こうには緑の庭が広がっている。その時が止まったかのような静寂はまるでそのまま永遠に続くように感じられる。しかし、時の刻みは、自分とは無関係に、決められた規則どおりに進んでいる。そう思うと、時間に置いてけぼりになったような気もする。時にはそんな風に時間の流れるままに流されていくのも大事かもしれない。けれど、自ら積極的に時を刻むのも大事。何かに没頭する自分に逆に時が追いかけてくるぐらいの生き方も大切かと。何十年かの人生の間に、自らの時の刻み方ひとつでその人の人生は大きく変わってくる。年を重ねた今、自然にそんなことを感じるようになった。まだ、何年かは生き続けられるであろうことを思うと、今まで以上に自ら時の刻みを意識しながら、一日一日を大切に生きていきたいと思う。