骨董の魅力

フランスの蚤の市の様子を伝える番組を見たが、蚤の市には貴重な骨董がたくさん眠っているようだ。とは言っても骨董探しには、それを見出す眼力と見識が必要である。リヨンの絹織物は18世紀中頃、フランス革命前の王室によって支えられ発展し、特に王室画家フランソワ・ブシェ等の素描をモチーフにして金糸、銀糸で織られたタピストリーなどは極めて貴重なものであることを知る。また、ガラス工芸品も、エミールガレ、ドーム兄弟などのアールヌボー時代の作品、ルネ・ラリック等のアールデコ時代のオパールセントと呼ばれる技法の作品など、各時代の特徴、作風や技術の変化などを理解した上で探してみると大変面白そうである。陶器も、一概にリモージュと言っても、リモージュのカオリンは20世紀中頃には掘り尽くされてしまったため、それ以降は他の産地のカオリンが使用されているとのことであり、それ以前のリモージュに価値ありとされるようだ。また、それ以降でもル・タレックによる絵柄のパリ製のリモージュはまたそれで価値があるようである。他に、ベルナール・ヴィルモのポスターなど、骨董にも様々なジャンルがあり、それぞれに奥が深そうである。知らないことばかりだが、最近訪れたナンシーでガレやドームの作品を見てきたばかりということもあり、骨董への興味が一段と高まった。 

金継ぎ

何故今までこの金継ぎという文化に触れることがなかったのだろう。衝撃的である。わざわざ日本へ金継ぎを習いに来ているあるポーランド人のことが報道されていた。割れたり、欠けたりした器を漆で修復し、仕上げを金や銀で装飾する技術であるが、単に修復技術にとどまるのではなく、そこに新たな芸術を生み出している。ものを大切にすると同時に修復する中にまた新たな美を生み出すこの芸術の奥深さと背景にある哲学に感銘を覚えた。 

琉球紅型(りゅうきゅうびんがた)

琉球王国を象徴する琉球紅型(りゅうきゅうびんがた)のことを知ったのはつい最近のことである。

既に15世紀頃には存在しており、東南アジアや本土との交易の中で様々な技法を取り入れ、発展させていったとされる。江戸時代には古紅型とよばれるものが栄えたにもかかわらず、明治時代には王府廃止に伴い衰退したとされる。第二次世界大戦により焦土と化した沖縄にあって、王朝時代からの染物業の宗家である城間家、知念家などが紅型復興に努め、今日に至るとされる。

朱、黄、藍などの色の鮮やかな紋様、型染独特の風合いが美しい。もう30年以上も前のことになるが、インドネシアのバティックの美しさに感動したことがある。紅型の、特に藍色の紋様はそれにも似た風合いである。

(参照:首里琉染、wikipedia、NHKドキュメンタリー)

Batik

もう30年も前に仕事でフィリピンに住む機会があり、その頃インドネシアのバティックに触れた。女性のドレスやテーブルクロスなど、バティックの藍色の紋様を粋に感じたものである。インドネシアのバティックは、しばらく衰退していたものの、2009年にユネスコ世界無形文化遺産に登録されたこともあり、2010年代に復興したとのこと。2013年に亡くなった故ネルソンマンデラも愛好していたため、世界的にも広まったとのことである。 バティックはろうけつ染めで染められた布で、布地に蝋で模様を描き、染料や絵筆で着色する伝統的な技法で、1000年以上の歴史があるとされる。最近のバティックは自分が初めて見て感動したころの風合いとは異なるデザインのものが多いように見受けられるが、それも時代の変化を映しているのかも知れない。(参照:日経新聞2018.8.19)

Goya

1808年5月2日、ヨーロッパ征服の野望を抱くフランス皇帝ナポレオンによって派遣された軍隊に対してスペイン民衆は蜂起して戦ったが、翌5月3日フランス軍によって鎮圧され人々は処刑された。この事件を契機にスペイン全土でフランス軍とゲリラ戦が続いたが、フランス軍はゲリラとの戦闘に疲弊し、1814年にスペイン支配を断念した。しかし、王位に復位したフェルデナンド7世は、民衆の期待を裏切って自由主義を弾圧する圧政を始めた。ゴヤは、「5月3日マドリッドの銃殺刑」により、戦争がもたらす現実を冷徹な目で描いた。そして、1824年には自由を抑圧されたスペインを離れ、ボルドーに移り住み、死ぬまで絵筆を握り続けたとのことである。プラド美術館には、Aun Aprendo(それでもわしは学ぶぞ)と記された素描が残されているとのことである。 宮廷画家としてのゴヤ、「マハ」で有名なゴヤであるが、あらためてゴヤの真の内面を理解することができたように感じた。 いつの世になっても、人と人との争いは絶えることがないのだろうか。悲しい現実である。 (参照:日経新聞2018.8.19)