大磯鴫立沢にある鴫立庵を訪ねた。ここは300年以上続く俳諧道場であり、また湘南発祥の地であるともされる。
江戸時代初期寛文年間(1660年頃)に、小田原の外郎(ういろう)一族出身の崇雪(そうせつ)が石仏の五智如来像をこの地に運び、これを本尊として西行寺建立を目的として初めて庵を結んだとされる。平安時代末期の歌人、西行法師が大磯周辺の海岸を吟遊し、「心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮れ」と詠んだことから、崇雪は鴫立沢の標石を建てた。崇雪はまた鴫立沢の景色を、中国湘江の名南方一帯の「湘南」の景色に重ねて「著盡湘南清絶地」と碑に刻んだことから、「湘南」の名称発祥の地とされている。
入口はいって手前の鴫立庵室(写真上)は、元禄・宝永時代の初代庵主、伊勢出身の大淀三千風(おおよどみちかぜ)が建てたとされ、歴代庵主の住まいとして使われているとのことである。三千風以来、現在の第二十三世庵主、本井英(もといえい)に至るまで時代を超えて脈々と引き継がれているとのことで、まさに驚きである。鴫立庵室の奥が俳諧道場(写真下)で、三千風入庵後70年を経て増築されたとのことであり、「俳諧道場」の扁額が掛けられており、鴫立庵の正庵となっている。いずれも萱葺の風情のある建物である。
俳諧道場の奥には、円位堂がある。三千風が元禄時代に建てたままの建物で、この堂も厚い萱葺で被われている。堂内には等身大の西行法師の座像が安置されている。
俳諧道場の前には、法虎堂があり、三千風在庵の頃に江戸吉原から寄進された有髪僧体の虎御前十九歳の木像が安置されている。虎御前は大磯の遊女で、建久4年(1193年)の仇討ち事件で有名な曽我兄弟のうちの曽我祐成の妾であったが、無罪放免となるも出家して信濃善光寺に赴いたとされる。
鴫立庵の敷地奥には、崇雪が迎えた釈迦、阿弥陀、大日、阿閦(あしゅく)、宝勝の五仏の五智如来像が安置されている。
勝手口近くには、大磯出身で鋳金家でもあった第十五世庵主原昔人(はらせきじん)が正岡子規に贈った「蛙鳴蝉噪(あめいぜんそう)の蛙」の像が建てられている。
鴫立庵室の軒下には雛飾りが吊られていた。手作りのひな人形が見事であった。