伊豆箱根湘南風土記(9)鎌倉の「鉄ノ井」

鎌倉の「鉄ノ井」

鎌倉十井の一つに「鉄ノ井」(くろがねのい)と呼ばれる伝説の井戸がある。その水は涸れたことがないとされる。
多くの観光客で賑わう小町通りのはずれ、鶴岡八幡宮から見れば正面の鳥居を出て右手にある。

昔、井戸を掘った際に鉄の観音像の頭の部分が出てきたことから名づけられたと言われる。
鉄観音像は、京都清水観音を信仰していた北条政子が創建した鎌倉新清水寺(既に廃寺となっているが、現在の浄光明寺近くに所在していたとされる)に本尊として安置されていたものとされる。出てきた頭部は、江戸時代まで井戸の前にあった鉄観音堂に安置されていたが、神仏分離令により観音堂が取り壊されたため、現在は東京人形町の大観音寺の本尊となっている。

正嘉二年(1258)に安達泰盛の甘縄屋敷から出火し、 折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、 総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、 若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に記されているとのこと。この井戸から掘出された観音像の首は、 この火災のときに土中に埋めたのを掘り出したもので、頭部だけで高さは1m70cmと人の背丈と同じ大きなもので、顔の幅は50cmの菩薩型の鋳鉄製である。

小さな物語ではあるが、観音像一つにも当時の人々の信仰やら災難を偲ばせる深い歴史があるものと感動を覚える次第である。

伊豆箱根湘南風土記(8)鎌倉七福神めぐり

鎌倉七福神めぐり

鎌倉への観光客の間で人気なのが七福神めぐり。

七福神の信仰が現在のように定着したのは室町時代末期といわれる。

鎌倉七福神の推奨コースは、布袋尊(浄智寺)、弁財天(鶴岡八幡宮)、毘沙門天(宝戒寺)、寿老人(妙隆寺)、恵比寿(本覚寺)、大黒天(長谷寺)、福禄寿(御霊神社)とされている。これに江島神社の弁財天を加えて鎌倉、江之島七福神となり満願となるそうな。

伊豆箱根湘南風土記(7)鎌倉と禅

鎌倉と禅

禅宗は開祖達磨によって六世紀前半に中国に伝えられた。栄西は1168年、1187年に宋に渡り日本の臨済宗の祖となった。その後も臨済宗は幕府の保護を受けながら、建長寺、円覚寺が、蘭渓道隆、無学祖元をそれぞれの開山として、日本の臨済宗の中心として発展し、禅と武士を結びつける大きな役割を果たした。禅宗は自力本願であり、坐禅によって自ら悟りを開くことを重んじる。坐禅は、精神を統一して悟りを求める古代インドの修行形式の一つである。常に戦場にあった武士は、人生の無常観と罪の意識に目覚めるに連れ、自らの生き方を問うため禅の教えを学び実践した。禅宗修行者が雲水と呼ばれるのは、行雲流水、行方を定めずひたすら良師を求めて歩く様を雲と水に例えた呼び名とされ、今でも雲水が托鉢を行い、一般家庭を訪ねている。

鎌倉時代、北条氏は南宋にならって五山制度(禅宗の格付け)を取り入れたが、鎌倉幕府滅亡後、京都を中心に順位が定められた。室町幕府三代将軍足利義満は鎌倉五山を建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の順で定めた。

鎌倉と京都の五山の禅僧が生み出した漢詩文を五山文学と称する。

なお、栄西の弟子で、明全に師事した道元は1223年宋に渡り、曹洞宗を日本に伝え、越前永平寺を建て修行に専念した。五代執権時頼に請われて鎌倉を訪れたものの鎌倉での寺院建立を固辞し、永平寺に戻ったとされる。臨済宗が貴族、武士階級に広まったのに対して、曹洞宗は庶民に浸透していった。

伊豆箱根湘南風土記(6)鎌倉 銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社

銭洗弁財天宇賀福神社は、鎌倉駅を降りて北西方面に静かな小径を15分ほど歩いて行った先に位置する。

祭神は、本宮が市杵島姫命、奥宮が弁財天である。1185年の巳の月の巳の日、頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、西北の仙境に湧き出す霊水で神仏を祀れば国内は平穏になると告げたとされる。頼朝は夢のお告げどおりに泉を発見し、宇賀福神を祀ったという。五代執権北条時頼は、金銭をこの水で洗い清めると同時に己の心身を清め、行いを慎めば不浄の塵垢が消えて清浄の福銭になると人々に勧め、自らも率先して金銭を洗い清め、一族の繁栄を祈ったとされる。以来、多くの参詣者で賑わうようになったとのことである。

伊豆箱根湘南風土記(5)鎌倉 円覚寺

円覚寺

北鎌倉駅を降りると駅のすぐ脇に円覚寺の山門がある。

鎌倉には百十余りの寺院が点在するがその三分の一は臨済宗が占めている。栄西は宋に渡り禅宗を学び坐禅によって自力で悟りを開くことを重んじた。栄西は1200年に北条政子によって寿福寺に迎えられ住持となった。鎌倉武士達は栄西が伝えた宋の禅宗に新鮮な魅力を感じた。臨済宗は幕府の保護を受け、栄西没後も門下の高弟により発展した。蘭渓道隆は宋風の本格的な臨済宗を広め、1253年建長寺の開山となり、幕府と禅宗は強く結びついていった。蘭渓道隆没後、八代執権北条時宗に招かれた無学祖元が円覚寺を開山し、臨済宗は更に鎌倉の地に根付いていった。

円覚寺は臨済宗円覚寺派大本山で、鎌倉五山第二位。文永、弘安の役の二度にわたる元との戦いで死んだ兵の菩提を弔うため、1282年時宗が無学祖元を開山に招いて建立した。寺名は起工の際に地中から円覚経を納めた石櫃が掘り出されたことによるとされる。鎌倉幕府滅亡後も夢窓疎石が住職につき、後醍醐天皇の力もあって繁栄し、塔頭も四十二を数えた。塔頭の一つ佛日庵は時宗の廟所とされる。

因みに、鎌倉には2000年まで松竹大船撮影所があった関係もあり多くの映画人や文化人が住んでいた。円覚寺本山墓地には小津安二郎の墓があり、墓碑には「無」と刻まれている。また、塔頭松嶺院には交通事故で他界した佐田啓二が眠っている。