伊豆箱根湘南風土記(14)石橋山古戦場及び佐奈田霊社


石橋山古戦場と佐奈田霊社を訪ねた。西湘バイパスを降りて、135号線を湯河原方面に進んだすぐの極めて細い道を昇ると、佐奈田霊社の駐車場に着く。一面がみかん畑であり、どの枝にもみかんが豊かに実っている。海には、紺碧の相模湾が広がっており、右手遠方には伊豆大島、そして左手遠方には湘南海岸が一望できる。

石橋山古戦場は、源頼朝が治承4年(1180年)に以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。これには相模の名族三浦氏、岡崎四郎義実やその子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。急な挙兵のため頼朝軍は300、これに対して平家側は相模の豪族、大庭景親、伊東祐親などが率いる3、000の兵力であった。佐奈田与一は僅か15騎ながら豪族大庭景親の弟、俣野五郎景久の75騎と戦い、俣野を組み敷き討たんとした時、刃についた血のりのため鞘から短刀が抜けず、逆に敵に討たれ、命を落とした。駆け付けた与一の郎党、文三家安も8人を討ち取るも、壮烈な戦死を遂げたとのことである。源頼朝らは土肥一族などに助けられて、無事落ち延びて、やがて平家を倒し、鎌倉幕府を開くことになったことは、広く知られているとおりである。

吾妻鏡によれば、源頼朝は建久元年(1190年)に伊豆山権現参詣の帰りに、与一と文三の墓を訪れ落涙したとされていることから、石橋山の戦いの後まもなく墓が築かれたようである。

佐奈田霊社には佐奈田与一が祀られた。仏寺であるが、一方、与一が天皇から神格化されたことから神社でもあり、霊社と呼ばれ、天皇家の人々も参拝しているとのことである。与一は討たれた時、声が出せなかったことから、お参りすると咳やのどに効用があるとされる。また、そのためか、明治、大正以降、東京の木遣の人々から多額の奉納がされている。本殿は大正期に建造されたようで、本殿前の小規模な建物が元々あった御堂であるとのことである。御堂の中には、干支観音が祀られているようであるが、中を見ることはできなかった。境内には、佐奈田与一の手附石が祀られ、与一の手形が石に残されている。また、魚を抱く魚籃観音の彫像が建てられていたのが珍しく目を引いた。

霊社下には、与一の組み討ちのあった「ねじれ畑」と呼ばれる畑が残っているが、この戦いの後、畑の作物が捻れて育つと謂われる。また、ねじれ畑のすぐ近くには、文三を祀った文三堂があり、内部の壁面には陶山文三公の肖像画が掲げられている。